西田敏行さんといえば、誰もが認める、今や日本を代表する大物芸人ですよね。
演技力はすごいですね、どんな演技も完璧にこなせる俳優さんだと思います。
歌も歌われていました。
そこで西田敏行さんのデビューからエピソードなどをまとめてみました。
デビューするまでの西田敏行さんは?
1947年、西田敏行さんは、福島県郡山市で生まれています。
お父さんは、西田さんが、5歳のときに亡くなっています。
まだ、幼い頃で辛かったことでしょうね。
その後、同じ郡山市内の母方の伯母夫婦に引き取られています。
少年時代は、映画好きの養父に連れられ映画館へ通い、チャンバラ映画に熱中。
私もよくチャンバラ遊びやりましたね!
普通の子供と変わらないですね。
西田さんは、その当時から俳優さんになるのを夢みていたのでしょうね。
映画を観る側よりも映画のスクリーンに映る自分の姿をぼんやり夢想していたそうですから!
そして、中学校に入り、演劇に興味を持ちますが、演劇部は女子しかいなくて入れなかったそうです。
時代が違うんでしょうね。
今なら男子もいるでしょうね。
昔は、男子の部活といえば、スポーツという風潮がありましたからね!
男子が演劇って雰囲気があったのでしょうね。
それに、スポーツをやっている方が女子には、モテましたしね。
結局、中学時代は演劇活動はしていなかったみたいですね。
そして、映画で「東京弁」に触れるうち、「俺このままずっとこの多感な時期こっちで暮らしていると、福島弁が染みついちゃって、もしかしたら標準語をしゃべれなくなっちゃうんじゃないか」との危機感を感じ始め演劇をやるなら福島弁でなく、標準語を習得しなければならないと
思い、両親(伯母夫婦)を説得の上、中学卒業と共に上京します。
すごい決断力ですね。
高校に進学するとバレーボール部に入部しますが、たまたま男子部員が居なくて困っていた演劇部の女子部員から、男役として部に協力してほしいと頼まれて、顧問のような形で演劇部に参加するようになったそうです。
1966年(昭和41年)、明治大学入学と同時に日本演技アカデミー夜間部に入りますが、同年大学を中退して、日本演技アカデミー夜間部から昼間部に移り、翌年に卒業しています。
大学中退までしても、演劇をやりたかったんですね。
情熱を感じますね。
仲間と劇団『シアター67』を結成して失敗しますが、その頃の1967年(昭和42年)に「渥美清の泣いてたまるか」(TBS)でテレビ俳優としてデビューしています。
本格的に役者の道へ
1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員となります。
同年の青年座7月公演「情痴」(作:西島大)で初舞台。
1971年(昭和46年)の10月公演「写楽考」(作:矢代静一)では早くも主役に抜擢され大器の片鱗を見せています。
その後は役者として不遇の日々を送りますが、1976年(昭和51年)にレギュラー出演した「いごこち満点」と「三男三女婿一匹」(共にTBS)で注目を集め、森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得します。
1977年(昭和52年)には「特捜最前線」(テレビ朝日)、1978年(昭和53年)には「西遊記」(日本テレビ)に重要な役でレギュラー出演。
さらに1980年(昭和55年)には「池中玄太80キロ」(日本テレビ)と「サンキュー先生」(テレビ朝日)で主演、翌1981年(昭和56年)にも
NHK大河ドラマ「おんな太閤」で準主役を務めるなど、連続ドラマで活躍されます。
この頃から、歌手活動も精力的に行い、1981年(昭和56年)4月に発売した、「池中玄太80キロ」第2シリーズの主題歌「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしました。
そして、NHK紅白歌合戦において、歌手、司会、審査員、応援の4パターン(ナレーションを含めると5パターン)全てで出演経験があるのは西田さんしかいないようです。
素朴で飾り気のないキャラクターやトーク、アドリブの巧さ、コメディアン・エンターテイナーぶりはバラエティ番組やコント番組でも注目され、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」を始め、数多くの番組に出演、その他司会など、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮しています。
1986年(昭和61年)映画「植村直己物語」に主演
西田にとっては明大農学部の先輩で、映画公開の2年前、1984年2月にマッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己さんを演じます。
植村直己さんが亡くなったとき私は、まさかあの植村直己さんがって思いましたね。
この作品ではモンブラン(フランス)エベレスト(ネパール、中国)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行。
7ヶ月に及ぶ長期ロケは過酷なもので西田さんは死を覚悟して臨み、実際に大自然と対峙しつくづく抗えないことがあるんだと痛感させられ、
大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が僕に言葉にはならない、いろんなものを与えてくれたといわれていました。
2年後の1988年6月公開の映画「敦煌」でも長期の現地ロケに参加し、一時は「極地俳優」の異名をとっています。
その後、数々の人気ドラマや映画に出演されています。
プロフィール
本名:西田 敏行(にしだ としゆき)
生年月日:1947年11月4日(68歳)
出生地:福島県郡山市
身長:166cm
血液型:B型
職業:俳優・歌手・タレント・司会者
活動期間:1967年 –
主な活動内容
1968年:青年座養成所入所
1970年:同座員になる
1977年:『特捜最前線』
1978年:『西遊記』
1980年:『池中玄太80キロ』
1980年:『サンキュー先生』
1981年:『おんな太閤記』
1986年:『植村直己物語』
1988年:『釣りバカ日誌』
1990年:『翔ぶが如く』
1993年:『学校』
1995年:『八代将軍吉宗』
2000年:『葵 徳川三代』
2004年:青年座退団
2008年:紫綬褒章受章
2009年:日俳連理事長就任
配偶者:既婚
事務所:オフィスコバック
備考
歌手「もしもピアノが弾けたなら」
『探偵!ナイトスクープ』2代目局長
まとめ
これだけの演技力のある俳優さんは、数少ないと思いますね。
どんな役でもこなすことが出来ますよね。
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